柴田保之先生ブログ「関わり合いの場から」2013年3月8日

「意識障害と言われる方々も手を添えれば字が書けること」 
遷延性意識障害と呼ばれる状況にある人に昨年の秋以降、お会いする機会が増えて来ました。これは、やはり、山元加津子先生と宮田俊也さんにお会いしたおかげです。

そして、今、たいへんなできごとに出会っています。それは、みなさん手を添えれば文字が書けるという事実です。私は、パソコンとスイッチを使って相手の小さな合図を読みとることによる方法に習熟しているので、そうした場面では必ずその方法を試みてきました。そして、幸い、医学的診断の内容にもかかわらず、その方々の言葉を引き出すことができて、実はその方々が当たり前に意識を持ち、豊かな言葉を持っているという事実に出会うことができました。しかし、私の方法はすぐにご家族が実践できるものではありません。パソコンやソフト、スイッチなどの設定の煩雑さにくわえ、50音表を行と段とをスキャンしていくという方法のなじみのなさや、もっとも決定的なことは、合図があまりにも微妙なので、なかなか感じ取るのがむずかしいということがあるからです。

しかし、秋以降、私は、自分のその方法はその方の気持ちをひとしきり聞いた後、いったん置いておくことにしました。そして、ペンを手に握ってもらって、字を書いてもらう取り組みを始めたのです。これは、幼い時からの障害ある人たちとの関わり合いでも使ってきたものですが、それを、意識的に活用することにしたのです。

まず、どんな持ち方でもいいからペンを持ってもらい、ペン先があたるようにスケッチブックを出します。そして、○と×を書くことを伝えてから、最初に○を書いてもらいます。すると、ここで多くの方がほんのわずかでもペンが動き始めるのです。別に介助者が動かさなくても、ほんのわずかな動きがほとんどの方で見られました。そして、きれいな○でなくても、ともかく曲線が描かれたことが確認されたら、今度は×に移ります。すると、明らかに○の時とは違う直線を引く動きが出てくるのです。×は一筆では書けませんし、交差も必ずしもうまくいくわけではありませんが、明らかに○を書く時の曲線の動きと×を書く時の直線の動きには違いがあるのです。曲線を書けばイエス、直線を書けばノーなのでそれだけで、やりとりは成立します。

最初の○の動きがあまりよくわかりにくい場合は、一緒に○を書いてみます。そして、その時の手に伝わってくる感じをよく覚えておいて、今度は、×を一緒に書いてみて、その動きを覚えておきます。これだけでは、ただこちらが動かしただけですから、本人の意志があるとは思いにくいのですが、ここで、あえて、○を書いてほしいと言って直線の動きをしてみたり、×を書いてほしいと言って曲線の動きをしてみると、動きにくい感じがします。それは、お願いした○と×にちゃんと一致するように手を動かした時、本人もそのように動かそうとしたのに対して、お願いしたのと異なる動きをしているから互いの動きがぶつかりあってしまうからです。このかすかな動きを読みとるとなるとなかなかむずかしいかもしれませんが、それでも、ペンの抵抗などをうまく調整しているとみなさん少しずつ動き出したのです。

そして、何と言っても感動したのは、その場で何とかご家族の方もこの援助ができたということです。あまり比較したくないのですが、中途障害と呼ばれる方々のほうが、家族がその場でできる割合がとても高いというのが印象です。その理由として考えられるのは、長年にわたって文字を書いた経験が体の細部に宿っているということです。物心がついたころから練習してきて、無意識にすらすら書けるようになった方と、イメージの中であるいはかすかな動きを独力で繰り返し練習してきた幼い頃からの障害のある方とは、実際の練習量がちがうのだと思います。(ただ、誤解していただきたくないのは、幼い頃からの障害のある方は、練習の量が違うだけで、慣れた援助さえあれば、すぐその場で書けるということと、実際にペンを持つことなく、そこまで独自に学んできた熱い思いのことをけっして私たちは忘れるべきではないということです。)

ところで、長い時間をかけて筆談の練習の方法を考えて来られた当事者である里見英則さんは、○×の次に、数字がいいとおっしゃっています。ひらがなよりも数が少ないのと形がシンプルだからですが、実際に、みなさん、すぐに数字もできました。数字ができれば、いろいろなことを聞くことができます。3つの選択肢のうちの何番かとか、今日の調子を5段階で表せば何段階目かなどです。そして、数字ができれば、ひらがなはすぐそこです。

まず、こちらで決めた任意の言葉を書いてほしいと頼んで書いてもらえば、添えた手がその文字のように動くのをわかると思います。本当はもっと長く延ばすべきところが短く終わったとしても、そこにはまちがいないくその文字を書こうとする意志が介在しますし、長く延びてしまってもそれは、止められなかったからだとすぐにわかります。

確かに、いきなり気持ちを聞いたりすると、まだ、いったい何という字を書こうとするのかわからなかったりもします。しかし、よくよく軌跡をたどってみれば何かの文字であることがわかることもしばしばです。

こういうことが、その日のうちに起こるのです。確かにご家族がお一人でやっても、なかなかうまくいかないかもしれませんが、そういう可能性があることを今、強く訴えていかなくてはいかないと思っています。

(山元加津子のコメント)
ああ、なんてすごいことでしょう。本当にこれはすごいすごいことだなあと思います。1月に柴田先生が宮ぷーの病室にきて下さったときに、柴田先生の方法の練習をしました。このとき、チーム宮ぷーのみんなが一緒でした。私を含めて5人がいて、そして、私以外の4人は、柴田先生の方法が、そのとき、少しできたのです。とくにかおりちゃんはすごくその感覚がつかめたようでした。ところがそんなふうにできる人がいる一方、私のように、それではまったくわからない人もいます。いえ、どちらかというとこの方法では、全くできない人が多いかもしれないです。でも、私は柴田先生も書いておられるように、子どもさんの手をとって一緒に書いて気持ちを伝えあうと言うことはこれまで何度か経験がありました。この方法の方が、わかる方が多いかもしれません。ということは、ご家族がその方法をとれる方が多いということになります。華子ちゃんの息子さんのまーくん(映画にも出ておられます)もそして、たけちゃんも、それから、メルマガを読んでくださっているお友達が何人も、この方法で、ご家族と少しずつ気持ちの伝えあいができるようになっておられるのです。みんな思いがあるんだという大前提があって、あきらめなかったら、きっと思いは伝えあえる。私はずっとそう信じています。